本基金について

設立とご協力のお願い

辻節隆(つじよしたか)は弘前大学医学部山岳部に所属し、1993年12月29日より北アルプス穂高連峰における冬山合宿中、1994年1月1日下山中滑落し亡くなりました。山行は4人のパーティーで、彼は冬山に不慣れなメンバーに教えながらサポートしていましたが、自己の確保が困難となって滑落いたしました。節隆は医学部3年生(23歳)、将来は辺地での医療活動に従事、献身すべく夢に向かって着実に歩み始めていた矢先の出来事でした。

趣旨

 節隆は、小学校の頃より発展途上国にて、貧しい人々の命を救うことを一生の目的と定め、熱帯小児感染症を学ぶべく努力を重ねて参りました。思えば小学4年時に巡り合ったシュバイツァーの自伝を熟読したことをきっかけに、恵まれない子どもたちへの医療活動に従事したいと思いはじめました。この大きな夢は、その後多くの先生方に教えられ、友人に支えられ、不変なものとなっていきました。献腎・献眼・献体の志は、その証しのひとつであったと思います。絶筆となりました1994年の年賀状にも、「将来は、国際保健機構(WHO)の医師となって、発展途上国の公衆衛生の向上に務めたいと思う」とありました。

 彼が生涯に渡って主題としたのは「強い生き方(自らをととのえる)と「心の優しさ(自らを与える)」にあったとおもいます。世俗的な出世や名誉に拘らず、人の喜びをわが喜びとし、人の悲しみに共に涙することのできる、そして人々の心の輪のひろがりに無上のしあわせを発見できる人間、その意味では最も純粋な一人の人間であったと言えるかもしれません。彼が山へ行きましたのも、自らの精神の鍛錬のためであり、苦しみを乗り越える中でこそ、人は最高の幸福を獲得できるのだと考えておりました。

 また彼は常日頃、患者の痛み・苦しみ・悲しみを共感できる医師、そして本当に医療が必要な辺地・海外等に身を投じる医師が少ないことに疑問を感じておりました。「いかなる生命も神のもとには等しく尊いのだ」という信念を抱き、将来は進んで人のために献身する、こころの優しい医師(自称ファーザー・テレサと言っておりました)を目指しておりました。この志を国際貢献の場で具現化するために「YOSHITAKA'S HOPE FUND (節隆国際医療・教育援助基金)」を設立致しました。

活動内容

 本基金は広く世界に目を向けて一人でも多くの保健医療従事者を育成することで一人でも多くの命を救うことを主たる目的としています。幸いにしてカンボジアユネスコの協力が得られ、95年よりカンボジアにおいて保健医療教育の援助を行って参りました。カンボジアは依然として文化枯渇、停滞の状況にあり、医療面・教育面も海外の支援に委ねられているのが現状です。そこで本基金は現地に移動図書館を送り、日本から寄せられた絵本・文具・遊具を積んで特に貧しい村々を廻り、カンボジアの将来を担う子ども達の識字・衛生教育の支援を行なっております。

 また98年からは中国への援助も始まりました。中国は急速な経済発展の影響で従来の貧富の差が益々広がり、甘粛省などの最貧地区では住民の殆どが農業に従事し、何とか飢えを凌いでいる現状で、教育や医療面にまで手が回らない状態です。そこで本基金では、甘粛省天水市から更に奥地の村において小学校・病院の建築援助を開始しています。続いて上海の華東師範大学においても臨床心理学者と特殊教育の専門家育成のための教育奨学金制度を設立しました。この制度は中国において今まで陽の当たらなかった心の障害を持つ子ども達への臨床治療・研究を行う「心の医者」をバックアップしていくものです。いずれにしても、私どもは自己満足に終わらずに、常に相手の立場に立って、必要な時に、必要な人に、そして必要な形に変えながら、息の長い援助を行っていきたいと考えています。

 「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一粒のままなり」の如く、皆様の心の中に永遠に生き続けることによって、社会に奉仕させていただくことを何よりも節隆は望んでいると思います。

 この趣旨・活動にご賛同・ご協力いただければ幸いに思います。

訓示

一、一日一日をしっかり生きろ

一、努力

一、継続

一、感謝

一、アタック

一、謙虚

一、祝福

一、素直

一、忠実

一、失敗は成功の元

一、思いやり

一、反省


小四 自作のモットー

辻節隆 略歴

1970年   名古屋市にて出生

1977年   名城小学校入学

1983年   南山中学校入学

1986年   南山高校入学

1991年   弘前大学医学部入学

1991年11月 環境医学研究会入会・山岳部入部

1992年   環境医学研究会を代表して

       放射能測定について東北大で発表

1992年5月 「A SEED JAPAN」

                   (環境問題検討会議)東北会議出席

1993年3月 「環境ボルテックス21」

                     (環境問題会議)

                       弘前にて実行委員長として主催

1993年7,8月 スターリング大学(スコットランド)

                       にて研修

1993年10月  医学祭実行委員会を発足させる

1993年11月  他大学視察・TV局・企業・OB会

                       との交渉

1994年3月  東京都立駒込病院感染症病棟実習

                       内定済み

1994年10月  医学祭は彼を名誉委員長

                       としたまま開催



名前の由来

 本基金の名称の「YOSHITAKA'S」は辻節隆の名前から由来しています。「HOPE」は文字通りの「希望」という意味もありますが、本来は「HEALTH&HAPPINESS OF PEOPLE EVERYWHERE(いかなる人々の健康も幸福も願って)」という略称です。少し長い名前なので、皆様は「Y'S HOPE」とか「節隆基金」等と呼んで下さっています。

 また、中国での活動の際にはそのまま中国語に訳して「節隆希望基金」という名称になっています。